自分の「面白い」を掘り下げることと〈自己了解〉
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目次
1.自分の「面白い」を掘り下げること by WRM 2016/09/26 第311号
倉下忠憲さんのメルマガ Weekly R-style Magazine 〜読む・書く・考えるの探求〜の311号に、こんな言葉が紹介されていました。
「それが自分に面白い理由」を考えるのは、百万の他人の批評を読むよりも価値がある、気がする。
倉下さんが2016年9月20日につぶやいた一言だそうです。
「それが自分に面白い理由」を考えるのは、百万の他人の批評を読むよりも価値がある、気がする。
— 倉下 忠憲 (@rashita2) 2016年9月20日
メルマガでは、この一言に続けて、ちょっとした考察が綴られていました。
大きく分けて、2つのことが指摘されています。
ひとつは、「それが自分に面白い理由」を考えることは、自分の根っこにつながるものの探索になる、ということ。
何かに触れて、「面白かった」と感じたとして、その後で「一体、その作品の何が面白かったのだろうか」と考えるのは、たいへん興味深い取り組みですし、おそらく自分の根っこ(根源)につながるものの探索にもなるでしょう。
そしてもうひとつは、「それが自分に面白い理由」を考えることが、自分自身で作品を作る場面でもつ意味。
でもって、自分が作品を作るときは、「これは面白いだろうか」といちいちジャッジメントしていかなくてはいけません。そのジャッジメントのクオリティこそが、作品のクオリティ(あるいは個性)になっていくわけです。だから、自分が面白いと思うことについて敏感になったり、掘り下げておくのはきっと意味があります。
他人の批評をたくさん読むことによって磨かれるスキルは、「批評を書く力」でしょう。作品を自分で書きたいのなら、作品を自分で体験したり、その体験を自分なりに掘り下げる必要があると思います。まあ、思っているだけで何の証拠もないわけですが。
※なお、メルマガのこの部分の全体は、倉下さんのHonkureブログで読むことができます。
WRM 2016/09/26 第311号 – Honkure
どちらもそうだよなあ、と思います。
そして、特にひとつめの点については、ちょうど同じころ、私も同じようなことを考えていました。
2.『実存からの冒険』の〈自己了解〉
(1) 作品群を生み出し続けることの意味
1000番めの記事という区切りを目の前にして、ここ1か月ほど、自分にとってのブログの意味をつらつらと考えていました。
その結果、ざっくり言えば、次の5つなのではないか、という暫定的な結論に達したのですが、
- (1) 変化し続ける自分の全体から、一部分を切り出して、固定する
- (2) 自分の中にある大切なところに、光を当て、かたちを与える
- (3) 自分がいいと思うものの、いいと思うところを、他人にもわかる言葉にする
- (4) 誰かにとっての部品・道具・触媒として機能しうるものを、完成品として公開する
- (5) 自分にとっても、他人にとっても、価値ある何かを創り出す
このうちの3番め、「自分がいいと思うものの、いいと思うところを、他人にもわかる言葉にする」が、倉下さんのいう「「それが自分に面白い理由」を考える」意義の前半に通じるような気がします。
この作業をしてみると、「いい」と感じた対象を、なぜ、自分が「いい」と感じたのかを、掘り下げることができます。さらに、これに伴って、その対象を「いい」と思う自分自身に対する理解を、少し掘り下げることができます。「いい」と思う対象を表現することそれ自体も楽しいことですし、「いい」と思う対象を媒介にして自分自身をより深く理解できることも、嬉しいことです。
(中略)
作品群を生み出し続けることは、毎日の生活の中で出会う「いい」に言葉を与え続けることです。毎日の生活の中にささやかな「いい」をたくさん見つけ、丁寧に掘り下げることによって、自分自身の価値観とか世界観とかに対する理解をひとつずつ深めていくことです。
倉下さんと同じような時期に倉下さんと同じようなことを私が考えたことには、共通要因なりなんなり、何らかの関連性があるのかもしれません。概して私は、倉下さんが読み書きするものにアンテナを張っていますので、探してみれば、倉下さん→私というつながりが、どこかに見つかるかもしれません(先程のツイート自体は、その時点では見ていませんでした)。
それはそれで興味深い系統探求ではありますが、私がこのようなことを考えるに至ったそもそもの由来は、わりとはっきりしています。大学生の頃に読んだ、西研さんの『実存からの冒険』です。
(2) 『実存からの冒険』の〈自己了解〉
このブログでも何度か紹介している『実存からの冒険』は、私にとっての「私の人生を変えた本」です。
大げさな言葉ですが、全然言い過ぎではありません。私は、この本から、ルサンチマンとの付き合い方とか、〈実験=冒険としての生〉とか、たくさんの大切なことを学びました。そして、これらは当時も今も、私の人生の核となっています。
- ルサンチマンに負けない生き方。自分の条件を既定と捉え、その条件のもとで自分なりの生き方を描く。
- 『実存からの冒険』から受け取った〈実験=冒険としての生〉というイメージが、ブログによって現実になっていた。
ここに紹介する〈自己了解〉は、これらと並んで、『実存からの冒険』から受け取った考え方です。最初に読んだときはそれほどピンとこなかったのですが、何度か読み返すうちに徐々に自分のなかに入ってきて、特に最近は、「これを知ることができてよかったなあ」と深く感謝するほどになりました。
●
〈自己了解〉が登場するのは、『実存からの冒険』の終盤です。そこまでに論じられたことが絡み合い、クライマックスに向けて盛り上るところなのですが、他方で、〈自己了解〉という概念自体は、本書全体をまとめるコンセプトとして提示されているためか、必ずしも明確な説明が与えられていない気もします。
そこで、若干不正確なところもあるかと思いますが、以下、私なりの理解を整理します。
a.〈自己了解〉=自分の欲望をあらためて了解しようとすること
まず、西研さんは、〈自己了解〉を「自分の欲望をあらためて了解しようとすること」と説明します。
自分の欲望をあらためて了解しようとすること=〈自己了解〉という視点
p.238
となると、「欲望」の意味が重要になりますが、ここでいう「欲望」とは、食欲とか性欲とか睡眠欲とか承認欲求とかそういうことではありません。「欲望」は、第2章で説明されている「可能性」との関係で理解する必要があります。
人間は、「もろもろの可能性の総体」です。
〈人間とは、彼のもろもろの可能性の総体である〉。
p.135
つまり、「〜ができる」という可能性は、総体として、その人と世界との関係を形作っており、ある意味、その人自身です。
人間はさまざまな可能性を抱えて生きており、そのなかにはきわめて重要なものからさほど重要でないものもある。可能性は失われたり、新たに生じたりする。可能性は総体として彼と世界の関係を形づくっており、ある意味では彼自身、彼の存在そのものである。
というのは、彼という人間がまず存在していて、そこにさまざまな可能性が付着してくるのではないからだ。可能性が新たに開かれることによって、彼と世界は新しくなるし、可能性が失われることによって、彼と世界との関係の少なくとも一部は死ぬのである。
pp.135-136
「欲望」は、この可能性という通路をとおって、その人にやってきます。
とすれば、可能性は欲望の通路である、ということになるだろう。ある可能性が新たに生じてきたならば、それは、新たな欲望のミゾが掘られたということであり、またある可能性が断たれたならば、その欲望が封じられたことを意味する。人間はまったく随意に欲望する存在ではなく、欲望のミゾはあらかじめ掘られてしまっているのだ。しかしまた、人間は新たに欲望のミゾを掘る存在でもある。
p.136
そんな意味での「欲望」を自分で了解することが〈自己了解〉です。そして、西研さんは、これを「あらためて」「しようとする」こと、つまり主体的な営みとして理解します。
この〈あらためて自己了解しようとすること〉。このことは、実存にとってすごく大きな意味をもっているとぼくは思う。それは、基本的には自分の生に対する態度、つまりニーチェとハイデガーが教えてくれたひとつの生き方である。けれどもまた、自己了解の営みそのものが人間にとって、新しい存在可能性=新しいエロスでもありうるのだ。
p.238
では、〈自己了解〉の営みそのものが、人間にとって新しい存在可能性である、とは、どういうことでしょうか。いくつかの具体例が示されていますので、概観します。
b.さまざまな〈自己了解〉の営み
(a) 自己決定としての〈自己了解〉
ひとつめは、「自己決定としての〈自己了解〉」です。
悩んだり迷ったりしたときに、「自分としては何を望むか」「自分はいま何ができるのか」と考えて、「こうすることしかできないし、これでいいのだ」と決定を下すことを指します。『終末のフール』の苗場さんのような生き方ですね。
伊坂幸太郎『終末のフール』の中の、私が好きな言葉たち【一部ネタバレあり】
そういうときに、「自分としては何を望むか」「自分はいま何ができるのか」と改めて自分の意識に問い尋ねて、自分の欲望を確かめなおすこと。そうして「こうすることしかできないし、これでいいのだ」と決定をくだすこと。こういう自己了解を、「自己決定としての自己了解」と呼ぶことにしよう。
生きていくときに、こういうやり方を知っているとかなり役立つ。だれだって、じぶんのなかでふたつの欲望が衝突したり、ある欲望が満たされないことを恨んだりすることがある。そこで「自分はこれでいいんだ」「とりあえずこれでいく」というように自分の気持ちをハッキリさせること。それができないと、どんどん元気がなくなっていく。悩んでいる自分にカッコよさを見出しているようなナルシストもいるかもしれないけれど、それはその人の好きにまかせておけばいい。やっぱり元気でなくちゃね、とぼくは思うのだ。だから、元気に生きるためには「自己決定としての自己了解」は大事なのだ。
pp.239-240
ある意味、これは、「元気に生きるための技術」です。この技術は、現にうまく機能します。でも、それだけではありません。こうして自分の欲望を確かめなおし、自己決定を下すことは、自分の生全体を深く納得することにもつながるのです。
だからぼくは、〈生の肯定〉ということをもっと広げて考えたいのだ。つまり、「そのつどベストを尽くすこと」や「そのつどエロスを汲み取ろうとすること」だけではなくて、自分のひっかかっていることや苦しいことを掴み直そうとし、さらに自分の生全体を深く納得しようとする営みとして。
p.95
(b) 感受性の洗練としての〈自己了解〉
ふたつめは、「感受性の洗練としての〈自己了解〉」です。
西研さんは、音楽の例を挙げています。
音楽には、いろいろな質があって、「カッコいい!」というものもあれば「うーむ、アジがある」とか、「懐かしい響き」があったり、それはもう、ほんとうにさまざまである。さいしょはピンとこなかったものが、だんだんと自分に沁み込んできてすごくその良さがわかってくる、ということもある。それは、じぶんのなかに新しい感受性の回路が開けた、ということだから、すごく嬉しいことでもある。
pp.242-243
同じジャンルの音楽を聴き込んでいくうちに、だんだん自分のなかに基準ができてきて、最初は全部同じように聴こえていたのに、いつの間にか、「これはいい」「これはあんまり」みたいな基準がくっきりと生まれること。これは、多くの方が経験されていることのように思います。
そして、自分のなかにかなりハッキリした「面白い/面白くない」の基準ができてくる
p.242
こんな基準が自分のなかに育つことは、それ自体が、とても面白いことであるのと同時に、いわば、自分の感受性を洗練していくプロセスでもあります。
つまり、音楽を聴くということは、無意識ではあっても、どうじに自分の感受性を確かめ、それを新しくしていく、ということでもあるのだ。そして、自分の感受性がより洗練されたり新しくなっていくことで、より深く味わえるようになっていくのである。
p.243
(c) 感動を起点とする〈自己了解〉
みっつめは、「感動」です。
小説を読んだり映画を見たりして、感動することがあります。この感動とは、どんな体験でしょうか。感動したとき、私たちには、どんなことが起きるのでしょうか。
西さんは、こんなことを書きます。
感動、ということを考えてみよう。私たちは、音楽やなにかの文章にふれたり、なにか人と話をしていたりして、おもわず「感動」してしまうことがある。感動するとき、そこには自分と密接な何かがある、と感じさせられる。自分のうちに眠っていた何かが引きずり出されて震えている、という感覚がある。
p.240
「そこには自分と密接な何かがある、と感じさせられる」「自分のうちに眠っていた何かが引きずり出されて震えている、という感覚」。
なんかわかる気がします。
さらに、感動には、自分が感動したこと自体に驚く、という面があります。
(感動する、ということそのものに感動することさえある。自分が感動できる、ということへの驚き)
p.240
こうした感動には、自分自身を確かめ直すように促す、という作用があります。
なぜか。感動したときに告げられた自分を確かめたいからです。
感動は、自分のこころを確かめ直すように促す。それは、感動を再び自分のなかで味わいたいからでもあるが、そこで告げられた自分はなんだったのか、を確かめようとすることでもある。
p.241
つまり、感動には、自分の外にある対象に対する感動を起点として、自分を深く理解する、という動きがあります。〈自己了解〉です。
この記事で考えているのは、「自分の「面白い」を掘り下げる」とか「自分がいいと思うものの、いいと思うところを、他人にもわかる言葉にする」ということなのですが、これは、まさに、西研さんが感動について語ることと、直接につながっています。
ここから見えてくるのは、次のような生き方だ。〈いままでの自分が打ち破られることの喜びを大事にしながら、そこで告げられた自分を確かめ、それに従って生きようとすること〉。つまり、能力を身につけて一人前になったりすることとは違う、べつの進み方が人間にはあるのだ。
p.241
(d) 批評としての〈自己了解〉
よっつめは、「批評としての〈自己了解〉」です。
「批評」とは、誰かの思想や文学など、自分の外にある作品を対象として、何かを論じる営みです。本を対象にする批評が、書評になります。
批評は、単に対象となる作品の内容を客観的に要約したり紹介したりするだけの行為ではありません。それに加えて、批評の主体である自分が、その対象となる作品に対して、どんなことを考え、どんなことを感じるのか、という点を明らかにすることが肝心です。
そこでは、第一義的には批評の対象となっている作品が論じられています。しかし、それと同時に、批評の主体である自分の主観的な考え方とか世界観とか人生観とかが明らかにされているわけです。
つまり、対象作品を媒介として、自分のこだわりやひっかかりをほどいていく、という側面が、批評にはあります。
存在の危機といえるほどおおげさなものでなくても、私たちはどこかでさまざまなことがひっかかっていたり、いろんな傷を持っていたりする。そういうことを、哲学や文学や音楽などを媒介にしながら考えようとすること。そうやって自分のひっかかりやこだわりをほどいていくこと。これは、そのこと自体に喜びがある。自分がわかってくる、という喜びと、新しい方向がみえてくる喜びである。
pp.245-246
自分の外にある対象を批評する、というやり方によって、単に自分の内側を内省するだけではみえてこない部分を確かめることができる、というのが、批評という方法の強みです。
自分のいままでや現在をなんども考えてみる、という内省の方法だけでは、自分はなかなかみえてこないことも多い。批評というやり方は、共感や反省をもとにして自分を確かめられるということがいいところなのだ。
p.246
批評をしてみると、自分の中に感じていた感覚を、新しい言葉で表現できることがあります。たとえば、すごく「いい」「面白い」と感じた小説の書評を書いてみると、その小説に自分が感じた「いい」「面白い」をより詳しく言語化できるわけです。
そんなのはしょせん言葉だけの問題で、言葉遊びに過ぎない、という考え方もあるかもしれません。また、言葉で表現しようとすると、感じたことが逃げてしまう、という意見もありうるでしょう。
でも、ぴったりした言葉が見つかることで、「ああ、そうか、わかった!」という実感が得られることは、たしかにあります。もしそんなことが実現できたなら、それは言葉遊びではなく、感覚を確かめなおす、〈自己了解〉だといえます。
こうやって自分を解きほどいていくことは、コトバの秩序を自分なりに編み変えていく、ということでもある。私たちの〈世界=内=存在〉の了解は、コトバのかたちをとっているから、了解が深まることはコトバを編み換えることなのだ。じっさい、ぴったりしたコトバが見つかると「わかった」という実感がやってくる。
p.246
それに、自分の感覚とか自分の世界観をどんな言葉で掴むかは、とても大きなことです。
では、〈知〉にはなんの意味もないのか、というとそういうことではない、とぼくは思う。自分の存在をどういう言葉で掴むか、ということは、自分自身にとっても、他人と関係する上でもとても大きいことなのだ(じつはこのことがこの本を通じたテーマだったりもする)。
p.33
「批評としての〈自己了解〉」は、何らかの具体的な対象を媒介にして、自己了解の歩みを進めていく営みです。ふさわしい対象と出会えれば、自己了解は少しずつ、でも着実に、進んでいきます。
(e) 問題を媒介にした、相互了解としての〈自己了解〉
最後のいつつめには、他者が登場します。
自分のとって大切なことを、ただ自分で深く了解しているだけでなく、他者に伝えようとするのが、「表現」です。自分が〈自己了解〉したことが他者に伝わるととても嬉しいのですが、それをするには、どうしたらよいでしょうか。
それが、問題を媒介にした、相互了解としての〈自己了解〉です。
コトバでもって自分の了解を編み換えながら、他人に伝えようとするのが「表現」である。そして、通じるととても嬉しい。けれども、これがなかなかむずかしい。
だれでも、自分の困難や苦しさを他人にわかってもらいたい、という深い欲求をもっている。けれども、「わかってくれ」というのは、「愛してくれ」ということと同じようなことだから、むこうさんに「すみません、失礼します」といわれてしまえばオシマイなのである。
そこで、問題のかたちにする、ということが出てくるのだ。
p.246
他者との相互了解を進めるには、「問題のかたちにする」ということが大切になります。
問題を提出して、その問題に対する自分の考えを言ってみれば、「自分はこう考える」「私はこう考える」というように、問題を巡ってやりとりが可能になります。それが、他者との相互了解としての〈自己了解〉を進めてくれます。
また、問題が提出されると、他の人もその問題にたいして「おれはこう考えるけれど」ということができる。すると、純粋に考え方をめぐっての討論が可能になってくる。互いの違いや同じところもみえてくる。共感したり、触発されたり、という関係がとれるのだ。これは、相互の了解を交換し合うことの喜びを求めていくことであって、なんとなく一体感をもとめることではない。
かつてはそうした媒体として、〈社会変革〉という大テーマがあった。いまはそういうものはなくなってしまったけれど、これからは積極的に問題を立てていくという発想が必要だと思う。家庭や学校や会社や男女関係で悩んだり困ったりすること、そういうことをどうやって問題のかたちにするか。そして問題を媒介にして自己了解と相互了解を求めていくこと。「思想」の営みとはそういうことなのである。
p.247
自分の欲望をあらためて了解しようとするところから出発して、そうして了解した自分のことを、他者に伝えようとすること、とでもいえばよいでしょうか。そんな、他者との〈相互了解〉の可能性を求めながら、〈自己了解〉しようとすることが、西研さんの描く思想という営みです。
「思想」っていうのは、そういうことだ。だれか偉い人の言葉をうのみにすることじゃないし、世界の精密な理解を誇ることでもない。他者との〈相互了解〉の可能性を求めながら、〈自己了解〉しようとすることだ。もちろん、それは生の肯定の作業なのだ。
pp.95-96
3.作品を生み出す
『実存からの冒険』の〈自己了解〉を5つに整理して紹介しました。
- 自己決定としての〈自己了解〉
- 感受性の洗練としての〈自己了解〉
- 感動を起点とする〈自己了解〉
- 批評としての〈自己了解〉
- 他者との相互了解としての〈自己了解〉
『実存からの冒険』は、これらの〈自己了解〉を、「自分の欲望をあらためて了解しようとすること」に力点をおいて、考察しています。私も、「作品群を生み出し続けることの意味」を書いたとき、「自分がいいと思うものの、いいと思うところを、他人にもわかる言葉にする」の意義は、自分を了解できることにあると考えていました。
これに対して、冒頭に紹介した倉下さんの考察は、それに加えて、自分が作る作品のクオリティ(あるいは個性)を指摘します。そして、倉下さんの考察のポイントは、この2つが地続きになっていることにあるような気がします。
何かに触れて、「面白かった」と感じたとして、その後で「一体、その作品の何が面白かったのだろうか」と考えるのは、たいへん興味深い取り組みですし、おそらく自分の根っこ(根源)につながるものの探索にもなるでしょう。
でもって、自分が作品を作るときは、「これは面白いだろうか」といちいちジャッジメントしていかなくてはいけません。そのジャッジメントのクオリティこそが、作品のクオリティ(あるいは個性)になっていくわけです。だから、自分が面白いと思うことについて敏感になったり、掘り下げておくのはきっと意味があります。
たしかに、深い〈自己了解〉は、自分の作品に対する、「これは面白いだろうか」、「自分はこれを面白いと思うだろうか」というジャッジメントの基準を鍛えます。より多くの人に面白がってもらえるクオリティの作品を作るための基準になるかはなんとも言えませんが、少なくとも、自分自身が面白いと思えるだけのクオリティの作品を作るための基準を、自分の中に作ってくれるでしょう。
同時に、反対方面の地続き作用もあるように思います。つまり、自分の作品を作ることが、自分の中の〈自己了解〉の基準を鍛えてくれる、という方向の作用です。たとえば、私は1冊の本を書いたことで、自分の中にある、本を味わうための基準を鍛えることができました。同じ本を同じように読んでいても、以前はそれほど面白いと思わなかったであろうところに、著者の工夫や苦労を感じて、面白く読める、というような現象がある気がします。
とすれば、ここには、
- 「自分の「面白い」」を掘り下げる→〈自己了解〉→自分の作品が豊かになる
- 自分の作品を生み出す→〈自己了解〉→「自分の「面白い」」が豊かになる
のような、ぐるぐる回る好循環があるのかもしれません。
「それが自分に面白い理由」を考えるのは、百万の他人の批評を読むよりも価値がある、気がする。
& amp;mdash; 倉下 忠憲 (@rashita2) 2016年9月20日
ほんとうに、百万の他人の批評を読むよりも価値があります。
(蛇足。「それが自分に面白い理由」を考えるためには、単に考えるだけでなくて、公開すること前提で文章を書き上げてみることをおすすめします。ブログは、そのためのよい環境を提供してくれます。)
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