自分の好きなことへの没頭を、「作品」として公開すること
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ここしばらく、ブログを続けることの意味について、考えています。普通の勤め人である私が、ブログを続けることの意味、です。
ブログを続けることの意味に疑問を持っている、というわけではありません。アシタノレシピに「普通の個人が、ブログのある毎日を送り続ける」というテーマで連載を書いている影響が大きいのかなと思います。
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私の話をします。
私がこのブログ「単純作業に心を込めて」を始めたのは、2012年3月です。もう4年以上の時が流れました。この間、私が公開した記事は、だいたい960個。2014年9月に『千夜一夜物語』からブログのあり方を考えたときにははるか先だと思っていた1001個も、わりと現実的なところに見えてきました。(2016年9月くらいには届くかな?)
この間、私は、ブログからたくさんのものを受け取ってきました。基本的には、「ブログは、私に、何を与えてくれたのか?(普通の個人が、ブログのある毎日を送り続ける、ということ)」で紹介したとおりなのですが、これらとは別の観点として、「作品として公開する」ということが、私にとってすごく大きなことだったんじゃないかとも感じています。
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ブログ記事とは、そのひとつひとつが、ひとつの「作品」です。「作品」というと大げさで恥ずかしいのですが、少なくとも私自身は、「作品未満のものを出さない」ということを基本方針のひとつにして、この「単純作業に心を込めて」を続けてきました。(「作品未満のものを出さない」は、「単純作業に心を込めて」の十戒の第一戒律です。)
もちろん、未熟なところや改善の余地がたくさん残ってますし、それほど大きな価値を生み出しているわけでもありません。どこの誰にも届かない記事だってたくさんあることでしょう。でも、私がブログに投稿した記事の全部は、私による「この記事はひとつの作品になった」という判断を経て、このウェブに公開されたものです。
逆にいえば、私は、ブログを続けることから、自分の何かを「作品として公開する」ということ、そして、そのために自分が生み出した何かについて「作品になった」という判断を下すことの機会を与えられました。
この機会を得たことは、私にとって、とても大きなことでした。「作品として公開する」ということ、そして、「作品になった」という判断を下すこと。これが、私がブログを続けていることの、とても大きな意味です。
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話は全然変わります。
ヘーゲル哲学に、「事そのもの」という考え方があるそうです。『精神現象学』の中に登場するそうですが、『精神現象学』は私にとってはちんぷんかんぷんで全然わかりませんでしたので、私が「事そのもの」という考え方を学んだのは、西研さんの解説によってです。
西研さんがいうには、「事そのもの」とは、「自分も他人も本当に善いと思えるものをめざそう」という姿勢です。
「事そのもの」のところでは、最後は「自分も他人も本当に善いと思えるものをめざそう」という気持ちになる。
Read more at location 2296 『憂鬱になったら、哲学の出番だ!』
西研さんの『憂鬱になったら、哲学の出番だ!』から、いくつか引用します。
この人は、最初は自分がつくった砂山を見て「よくできた」とひとりで思って満足している。ところが、他人がつくった砂山を見てしまうと、「あいつの方がすごいなあ」と思ってしまう。いくら無視しようとしても無理です。そう気づいたときに、「自分も他人も認めるようなすごい砂山をつくりたい」という意識になるわけです。この砂山は、料理でも小説でも落語でも置き換えていい。
Read more at location 2312
これはどんな仕事でも、同じです。最初は収入を得るために働き、自分の仕事に見合ったお金がもらえればいいと思うかもしれない。あるいはぼくのように、面白いからやっているだけ、ということでもいい。しかし本気で仕事を続けていると、やっぱりこの仕事が他人のため社会のために役立つかどうか、が気になってくる。そして、できれば本当に役立つことをしたいと思うようになる。そうなってくると、やはり、承認や、仕事の普遍的な価値、さらには社会正義といったことが問題になってきます。
Read more at location 2815
深く納得します。
そして、自分とブログの関係も、まさにこれだ、と思います。
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私が「単純作業に心を込めて」に書いている記事は、全部、私の好きなことです。
好きな道具やサービスのことを紹介する(WorkFlowy、HandyFlowy、Evernote、Kindle)。
好きな本や漫画から考えたことを書く(『終末のフール』、『宇宙兄弟』)。
好きな知的生産のあり方を表現する(「文章群を書き続ける」、「ずっと完成しないで変化し続ける有機体から暫定的な作品群を切り出す」)。
見返りを求めているわけではなく、仕事上必要だというわけでもなく、誰かに頼まれたからでもなく、好きだから、すごいと思うから、面白いと思うから、書いています。好きへの没頭が、「単純作業に心を込めて」です。
西研さんの言い方によれば、これは、「最初は自分がつくった砂山を見て「よくできた」とひとりで思って満足している。」とか、「あるいはぼくのように、面白いからやっているだけ、ということでもいい。」という状態に相当します。自己完結していて、幸せなあり方のように見えます。
ところが、それでめでたしめでたし、とはいきません。
私は、好きに没頭して書いた文章を、ブログ記事として公開しています。「作品になった」という判断を下し、「作品」として公開しているわけです。「書きたくて書いている」「好きなことに没頭できれば、それで満足」だとすると、それを超えて「作品」として公開する必要はないような気がするのですが、実際には、私は好きへの没頭から生まれたものを、ブログ記事として公開しています。
いったん「作品」として公開されれば、他者による評価の対象となります。他者による評価の対象となれば、よい評価をもらえることもありますが、当然ながら、よい評価をもらえないことも多いです。誰にも届かない記事、さらりと流れ去ってしまう記事もあります。
こんなとき、私は、「自分が書きたくて書いたんだから、誰にも届かなくても別に構わないよ」と思うようにしています。でも、それらのブログ記事についても、私は、「作品になった」という判断を下し、「作品として公開する」という道を選びました。そうである以上、ここには、「自分が書きたくて書いただけなんだから」を超える何かが存在するのではないかという気がします。
西研さんの指摘する後半部分が、その何かに関連します。「「自分も他人も認めるようなすごい砂山をつくりたい」という意識」や「しかし本気で仕事を続けていると、やっぱりこの仕事が他人のため社会のために役立つかどうか、が気になってくる。そして、できれば本当に役立つことをしたいと思うようになる。そうなってくると、やはり、承認や、仕事の普遍的な価値、さらには社会正義といったことが問題になってきます。」、つまり、他者からの承認や普遍的な価値を求めるということ。これが、「作品となった」という判断を下し、「作品として公開する」ということの意味なのではないかと思うわけです。
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ここには、微妙な関係があります。
- 自分のブログは自由なメディアだから、自分の好きなことに没頭できる
- 自分のブログに記事を公開するということには、他者からの承認や普遍的な価値を求めるという意味がある
両者の関係を、どのように考えたらよいでしょうか。
『憂鬱になったら哲学の出番だ!』で、西研さんは、こうも書いています。
じつは、ヘーゲルの哲学は、単に承認が大事と言っているのではありません。そうではなくて、承認の欲望がしばしば不自由を招くことを重々承知したうえで、では「自由と承認の相克」(自由でありたいと承認されたいとの対立)をどう解決するか、ということがテーマなのです。ですから、ヘーゲルの答えは、自分の考えを世間の価値観に合わせればいい、とはならない。自分も他人も「やっぱりこれは価値のあるものだ」と思えること、つまり普遍性を追究し実現しようとする生き方を提案しているのです。
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- 「自分はこれが好きだから、これに没頭する」ということだけを貫くあり方は自由です。でも、それだけでは普遍的な価値につながらない。だから、他者からの承認や普遍的な価値を求めるあり方も大切になってくる。
- でも、他者からの承認を求めることは、下手をすると不自由を招き、「自分はこれが好きだ」を制約するかもしれない。
- そこで、「自由と承認の相克」を解消することが大切だ。
という流れです。
こんな記載もあります。
「この仕事の価値は、今はまだ世間に評価されていないが、理解してもらえれば必ずだんだんと承認されていくはずだ」と思って、工夫し努力していく。こういう姿勢がヘーゲル哲学の最終到達点ですが、そう思っている人は絶えず新しい試みに挑戦しますから、結果的にすごく充実した生き方になるはずです。
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「自由と承認の相克」のために試行錯誤することが、結果的にすごく充実した生き方になる。
自分が好きで、価値を感じて、すごいと思うことに没頭する。でありながら、「自分はこれが好きなんだから、他者がなんと言おうと気にしない」に留まるのではなく、その価値を普遍的なものにするための工夫を欠かさないこと。
抽象的には、納得できます。でも、こんなあり方を具体的に実現するには、どうしたらよいのでしょうか。
ひとつの回答が、ブログではないかと思います。
ブログによって私は、「自分の好きなことへの没頭を、「作品」として公開する」というあり方を得ました。「自分の好きなこと」へ没頭することによって生まれた文章について、「作品になっているか?」という判断を下し、「作品として公開する」という機会を、日々、与えられています。ブログがなければ、こんな機会を得ることは、ほとんど期待できなかったのではないかと思いますが、ブログのおかげで、私にとって、こんな機会はとても日常的なことです。
自分の好きなことにひとり没頭し、他者からの承認や普遍的な価値を無視するでもなく、かといって、他者からの承認や自分の外にある価値基準によって自分のあり方を規定するわけでもなく。
そんな微妙なあり方を、普通の勤め人が具体的なかたちにするために、ブログはひとつの有効な手段となるように思います。
これが、普通の勤め人である私が、ブログを続けることの意味です。
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