「文章群を書き続ける」という積極的な社会参加のあり方
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単純作業に心を込める, 書き方・考え方
目次
1.積極的な社会参加へのあこがれと、その実現
大学生の頃から、知的生産にあこがれていました。本を読み、ものを考え、文章を書く。そんな知的生産のある暮らしを送っていけたらいいな、と思っていました。『知的生産の技術』や『思考の整理学』といった知的生産に関する古典の影響です。
ただ、私があこがれていた知的生産は、ひとりで完結する閉じたものではありません。本を読み、ものを考え、文章を書く、という一連のフローを通して文章を書き上げ、その書き上げた文章を公開するという、他者に対して開かれたものをイメージしていました。
また、人間の知的活動を、教養としてではなく、積極的な社会参加の仕かたとしてとらえようというところに、この「知的生産の技術」というかんがえかたの意味もあるのではないだろうか。
『知的生産の技術』 location 277
しかしニーチェはそこからさらに、〈そうやって生を肯定し進んでいく人間どうしが、その姿を見て互いに励まし合うという可能性〉を信じようとした。各人の生は冒険であり実験である。冒険し合う者どうしの間に信頼や共感が生まれること。そういう意味での共同性を彼は求めたのだった。
この実験=冒険としての生、というイメージのなかには、〈自分の生を、人間の生のひとつのモデル・ケースとしてみなす〉ということが含まれている。ニーチェじしん、自分の生をそういうひとつのモデルとみなしていた。充実して生きるために、さまざまな実験を身をもってやってみる。そういう努力が互いを刺激するし、励まされる。
『実存からの冒険』p.232
- 自分の知的生産をこの社会に加えることは、社会参加のひとつの仕方である(「積極的な社会参加の仕かた」by)
- 自分の知的生産の過程や成果を、他者も参照可能な場所に開示すれば、自分の生をひとつのモデル・ケースのように扱うことができる(〈実験=冒険としての生〉by『実存からの冒険』)
そんなイメージに、強くあこがれていました。
●
それからずいぶんと長い時が流れました。ふと気づけば、そんな私のあこがれは、いつのまにか実現していました。「積極的な社会参加の仕かた」や〈実験=冒険としての生〉という抽象的で情緒的なイメージは、具体的で現実に機能する明確な仕組みとして、あこがれを超えたレベルで、実現していたのです。
この仕組みは、具体的には、ブログとWorkFlowyによって、できています。本を読み、ものを考え、を書く、という一連のフローをWorkFlowyの上に流して、文章を書き上げる。WorkFlowyで書き上げた文章を、ブログに公開する。こんなブログとWorkFlowyによって、他者に開かれた、積極的な社会参加としての知的生産が実現していました。
では、なぜ、ブログとWorkFlowyは、積極的な社会参加としての知的生産を実現してくれたのでしょうか。考えてみたところ、肝は、「文章群を書き続ける」ということにあるような気がします。「ひとつの文章を書く」のではなく、「文章群を書き続ける」。この文章とのつきあい方こそが、積極的な社会参加としての知的生産を実現してくれた肝です。
この記事では、「文章群を書き続ける」ということについて、基本的なところを整理します。
2.「文章群を書き続ける」ということ
(1) 「文章群」
まず、「文章群」という言葉について。
言葉の意味としては、「文章群」とは、「複数の文章」という意味です。ひとつの文章ではなく、複数の文章。
しかし、「文章群を書き続ける」ということの「文章群」は、単に「複数の文章」でありさえすればそれでよいというわけではなく、「複数の文章」であることに加えて、いくつかの条件を持っている気がします。
この条件を自分なりに抽出してみると、次の3つが出てきました。
- ひとりの人間によって書かれたこと
- 何らかの情報を伝えることを目的とすること/メッセージを持つこと
- 作品として公開されることを前提に書かれていること(あるいは書かれようとしていること)
まず、ひとりの人間によって書かれたことです。複数の文章であっても、それらが複数の人間によって書かれた文章の集合体なのであれば、ここでいう「文章群」ではありません。
次に、何らかの情報を伝えることを目的とすることです。その文章が伝えるべきメッセージを持っていること、といってもよいかもしれません。ただ、ここでいう情報はすごく広い意味なので、何かを伝えるための文章であれば、この条件を満たします。
そして、作品として公開されることを前提としていることです。文章の中には、読み手を想定しない文章もあります。典型的には、ものを考えるために書く文章です。また、読み手の存在を前提としていても、まとまりを持つ作品である必要のない文章もあります。仲間内で意見交換をするための文章などが典型です。ですが、ここでの「文章群」は、そのいずれでもありません。まとまりを持つ作品として公開されることを前提に書かれている文章であることが、条件です。もっとも、作品として完成していることは前提ではありません。作品として公開されることに向けて書かれているのであれば、未完成であっても、書きかけであっても、条件を満たします。
●
他方で、ここでの「文章群」は、次の意味を含みません。
- × 相互に関連していること
- × ひとつの大きな体系に組み立てられること
まず、複数の文章が相互に関連している必要はありません。相互に関連していなくても、ひとりの人間が、作品として完成させることを目指して書いた複数の文章でありさえすれば、「文章群」です。(もっとも、もちろん、相互に関連していてもかまいません。)
次に、「文章群」全体が、ひとつの大きな体系に組み立てられる必要はありません。「文章群」のすべてを集めても、そこにどんな体系を組み立てることもできないとしても、その複数の文章が文章群であることの妨げにはなりません。
●
以上から、「文章群」の定義っぽく書くと、こうなります。
「文章群」とは、「ひとりの人間が、何らかのメッセージを伝えるために、作品として公開されることを前提に書き上げた、あるいは書き上げようとしている、複数の文章」です。
(2) 文章群を「書き続ける」
次に、ここで問題としているのは、そんな文章群を「書き続ける」ことです。
「書き続ける」とは、言葉の意味としては、「書くことを続ける」ということなのですが、これも同じように、私自身としては、一定の意味をイメージしています。
そこで、ここでの「書き続ける」についても、同じように、条件を抽出してみます。
- 終わりなく、ずっと続く。
- 文章を書くこと自体のペースは、ずっと連続していて、途切れない。毎日書く。
- 作品としての文章を書き上げるペースは、自由。1日で複数の文章を書き上げることもあれば、1週間ひとつの文章も書き上げないこともある。
- ひとつひとつの文章を書き上げるまでのプロセスは、文章ごとに、ばらばら。リードタイムも一定でない。
- ひとつひとつの文章は、分量も、形式も、雰囲気も、文体も、テーマも、ばらばら。
まず、書き続ける期間は、限定されていません。期間限定ではなく、終わりなくずっと続く。もちろん、書くことや考えることに興味がなくなれば、終わることもあるかもしれません。でも、書き続けている間は、いつまでに終わる、という期間の終わりは前提としていません。
次に、書き続けることのペースは、文章を書くことと書き続けることとで区別する必要があります。
文章を書くこと自体は、毎日連続です。途切れない。
これに対して、書いた文章を作品として書き上げるペースについては、自由です。どんなペースでもかまわず、1日1つのペースである必要もありません。1日にたくさん書き上げてもいいし、ひとつも書き上げないまま、1週間や1か月経過してしまってもいい。
それから、ひとつひとつの文章の間に、何らかの一貫したものは必要ありません。
文章を書き上げるまでのプロセスもばらばらでかまわない。たとえば、書き始めてから書き上げるまでのリードタイムについても、短くて数時間、長くて数か月から数年と、ばらばらです。
書き上げられた文章についても、形式も,分量も、内容も、テーマも、文体も、自由でかまわない。ひとつひとつの文章は、ばらばらです。
●
反対から書くと、こうなります。
- 書き続けることは、期間限定の営みではない。
- 書き上げるペースは決まっていない。定期的に成果物を生み出す必要はない。でも、書く行為自体は、毎日続けなくてはいけない。
- どんな文章をどんなプロセスで書くかについて、一貫した筋は必要ない。それらの文章が私というひとりの人間によって書かれていさえすれば、それでいい。
イメージとしては、トップダウンではなくボトムアップ、ひとつの中心に集約するあり方ではなく、たくさんの結び目へと分散するようなあり方。これが、私の考える「書き続ける」ということです。
3.「文章群を書き続ける」ということと、積極的な社会参加
では、「文章群を書き続ける」ということと、積極的な社会参加としての知的生産は、どのようにつながるのでしょうか。
文章群を書き続け、公開し続けることは、それ自体が、積極的な社会参加としての知的生産です。しかし、それだけではありません。「文章群を書き続ける」というあり方には、積極的な社会参加としての知的生産との相性がとりわけよいものが、含まれています。これを、
- 「文章群を書き続ける」というあり方から生まれる文章が持つ特徴
- そんな特徴を持つ文章と、積極的な社会参加としての知的生産との相性
という2段階で説明します。
(1) 「文章群を書き続ける」というあり方から生み出される文章が持つ特徴
まず、「文章群を書き続ける」とは、こういうことでした。
- 文章群を
- ひとりの人間によって書かれた
- 何らかのメッセージを持つ
- 作品として公開されることを前提にした
- 複数の文章を
- 書き続ける
- 期間限定ではなく、
- 書き上げることの間隔は空いてもいいけれど、書くこと自体の間隔は空けず、
- 書くまでのプロセスも、書こうとする文章の形式も分量も雰囲気もテーマも、何の制約もなく、自由に、
- 書き続ける
こんな「文章群を書き続ける」というあり方は、そこから生み出される文章を変えます。ひとつひとつの文章を書くときの姿勢が変わるためです。
ポイントは、ひとつの文章を書くとき、その文章の中にすべてのメッセージを無理やり詰め込もうとしなくなる、ということにあります。
一般に、文章を書くのは、メッセージを伝えるためです。何らかの伝えたいメッセージが自分の中にあって、そのメッセージを伝えるために、文章を書きます。この点について、「文章群を書き続ける」というあり方は、そんな自分の中にあるメッセージのすべてを、ひとつの文章だけで伝えなければいけないわけではない、ということを教えてくれます。
ひとつの文章の中に、伝えたいメッセージの全部を詰め込む必要はありません。ひとつの文章の中には、自分が伝えたいメッセージ全体のうち、一部分だけを盛り込めば十分です。その文章に盛り込めなかった残りの部分は、別の文章に盛り込めば、それで問題ありません。
ひとつの文章にすべてのメッセージを無理やり詰め込もうとすることをやめると、そのひとつの文章から、その文章にとって不要な部分を削除することが、得意になります。たとえ自分が伝えたいメッセージを含む部分であっても、そのひとつの文章が扱う対象から外れるなら、ザクザクと削るのは、簡単です。
そのため、「文章群を書き続ける」という姿勢で書かれた文章は、ひとつひとつの文章が担うメッセージの範囲は狭いのですが、他方で、ひとつひとつの文章が担うメッセージがくっきりとしている、という特徴を持っています。
(2) 範囲は狭いけれどくっきりしたメッセージを持つ文章を公開することと、積極的な社会参加
では、こんな文章を書くことは、積極的な社会参加としての知的生産と、どのようにつながるのでしょうか。
●
ひとつは、その文章が扱うメッセージに、誰かから価値を見出してもらえる可能性です。
ひとつひとつの文章が扱うメッセージは、範囲は狭いですが、くっきりとしています。だから、そのメッセージを必要とする人であれば、その文章に何らかの価値を見出してくれそうです。
もちろん、そのひとつの文章が対象とするメッセージの範囲は狭いですので、ニッチな価値です。でも、そんなニッチな価値であっても、必要とする人とマッチングさえできれば、確かな価値につながります。そして、このウェブ時代の技術を使えば、まさにそのメッセージを必要としている人に発見される可能性は、低くはありません。
たとえニッチであっても、そこに誰かが価値を見い出し得るものを社会に追加することができたなら、それは、積極的な社会参加としての知的生産です。
●
もうひとつは、他の知的生産とのつながりです。
公開された文章は、その文章単体を独立に読まれるだけでなく、別の文章から参照される、という形で別の文章と結びつくことがあります。
別の文章から参照されること自体が、積極的な社会参加です。また、別の文章から参照されて、別の文章と結びつけき、その別の文章が社会に広がっていけば、間接的に、その別の文章が担うメッセージに貢献できます。これも積極的な社会参加です。
このように、別の文章から参照されるような文章を書くことも、積極的な社会参加のひとつのあり方なのですが、メッセージの範囲が狭く、メッセージが明確な文章は、別の文章から参照されやすい文章の条件の一類型です。だから、扱うメッセージの範囲は狭いけれど、くっきりとしたメッセージを持っている、という傾向を持つ文章を書き続けることは、積極的な社会参加としての知的生産です。
4.おわりに
「文章群を書き続ける」というあり方をするようになって、大学生の頃に抱いた知的生産に対するあこがれが、具体的な形で、実現していました。
『実存からの冒険』から受け取った〈実験=冒険としての生〉というイメージが、ブログによって現実になっていた。
具体的な仕組みは、WorkFlowyで書き、ハサミスクリプトで切り出し、自分のブログで公開する、というものです。
「WorkFlowy」と「自分のブログ」と「ハサミスクリプト」(物事を考え続けるための、奇跡のような組み合わせについて)
これからも、「文章群を書き続ける」というあり方を通じて、自分の中に生まれるメッセージに、形を与え続けていきたいと思っています。
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