『実存からの冒険』から受け取った〈実験=冒険としての生〉というイメージが、ブログによって現実になっていた。
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ブログ, 単純作業に心を込める
目次
1.「積極的な社会参加」としてのブログ
好きなブログを告白する11月は昨日で終わっちゃいましたが、「iPhoneと本と数学となんやかんやと」は、私の大好きなブログのひとつです。
先ほど、このエントリを読みました。
ブログは、考えたこと・やってみたことの報告の場 – iPhoneと本と数学となんやかんやと
最近の自分の関心事とびっくりするほど共通していて、驚きました。たとえば、次に引用するくだりは、今日の夕方書いた「「文章を書き上げる理由」の獲得」とだいたい同じことを(ずっとわかりやすい言葉で)述べているような気がします。
また、ブログは、自分が読むためよりも、他の自分以外の人が読んでもわかるよう、理解できるよう、納得してもらえるように書く必要があります。ただただ振り返るだけなら、自分さえわかればいい形で文章化すればいいのですが、他の人が読むことを前提に文章化するとなると、より詳しく、より筋が通った形で、書いていく必要があります。そう心がけながら文章を書いていく中で、自分が考えたこと・やってみたことについての改善案がみえたり、他にも応用可能な部分に気づくことができたり、うまくいった本質の部分が明らかになってきたりします。
他の人がわかるように文章化するってことの威力は、なかなかに大きいわけです。
不思議なシンクロを感じたのですが、落ち着いて考えれば、たぶんこれは、それほど不思議なことではありません。というのは、私が自分のブログを持つ効用を考え始めたきっかけは倉下忠憲さんのメルマガで、ブログに関する私の思考はかなりの程度倉下忠憲さんに影響を受けているのですが、iPhoneと本と数学となんやかんやとのAtsushi(@choiyaki)さんも、倉下忠憲さんのメルマガを愛読されているらしいからです(発見や驚きを伝えたいならば – iPhoneと本と数学となんやかんやと)。
つまり、「ブログは、考えたこと・やってみたことの報告の場 – iPhoneと本と数学となんやかんやと」と「「文章を書き上げる理由」の獲得」は、倉下忠憲さんによるブログについての思考という、ひとつの共通要因の影響を受けた結果なんじゃないか、というのが、この不思議なシンクロに対する、私なりの推察です。
●
さて、その倉下忠憲さんのメールマガジン「Weekly R-style Magazine ~プロトタイプ・シンキング~」では、最新の2014/12/01 第216号において、ブログに関するさらに面白い考察が展開されています。
タイトルは「ブログと市民」。少し引用させていただきます。
情報のやりとりが重要な地位を占める社会__情報化社会__では、情報によって社会とのつながりを生み出すことができます。
私がブログに何かを書けば、その書いた何かによって、私と他の人のつながりが生まれる。情報を介して、人と人がつながる事例は、現代ではもう珍しい風景ではなくなりつつあります。今後は、もっとそれが広がっていくでしょう。
ブログを書くことは、人間の知的活動です。そして、それは「積極的な社会参加」なのです。
<略>
Webに情報を出すならば、そのコンテンツが誰かの・何かの役に立つか、誰かの価値になっているのかは、一度考えてみたいところです。
もしそれが、ほんのわずかでも他の誰かの益になっているとすれば、それは「積極的な社会参加」と言えるでしょう。誰かに強制されたわけでもなく、自らの意志によって、社会に価値を生み出していく行為。それが積極的な社会参加です。
それぞれの価値は、小さいものであってよいのです。むしろ小さくないと負担が大きすぎるでしょう。逆に、ニッチであるからこそ価値のあるものもありえます。そうしたものが、社会全体で積み重なったとき、大きな効果が生まれます。
<略>
情報化社会におけるブログも、そういう位置づけになっていけばいいなと願うばかりです。
この情報化社会において、個々人が自分なりにブログを書くことが、社会全体からの視点から見れば、「積極的な社会参加」になる、ということ。本当にそう思います。この情報化社会では、ブログは、コーヒー・ハウスやサロンのような役割を果たす可能性を持っているのかもしれません。
2.『実存からの冒険』の〈実験=冒険としての生〉というイメージ
さて、話は一見かなり変わるのですが、『実存からの冒険』という本があります。哲学者西研さんが、ニーチェ、ハイデガー、フッサールなどの思想を解説する本です。
自分の人生を変えた本を1冊だけ選んでくれ、といわれたら、私は、ちょっと迷って、この『実存からの冒険』を選びます。『夜と霧』でもなく、『7つの習慣』でもなく、『論理トレーニング』でもなく、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』でもなく、『「超」整理法』でも『知的生産の技術』でもなく、『実存からの冒険』を選びます。
『実存からの冒険』によって私が受けた影響は、「ルサンチマンとのつきあい方が多少上手になった」ということです。このことは、以前、「ルサンチマンに負けない生き方。自分の条件を既定と捉え、その条件のもとで自分なりの生き方を描く。」に書きました。
でも、これと同じくらい大きな影響がもうひとつあって、それは、「〈実験=冒険としての生〉という、自分の生き方のイメージを受け取った」ということです。
この〈実験=冒険としての生〉というイメージは、私の人生の根幹を支えています。私には、ミッションステートメントも人生の目標もありませんが、この〈実験=冒険としての生〉というイメージは、私にとって、ミッションステートメントなどと似たような機能を果たしているんだろうと思います。
では、〈実験=冒険としての生〉というイメージとは、一体何なのでしょうか。西研さんの言葉を『実存からの冒険』から引用しながら、私なりの理解を説明してみます。
(1) 「自分の条件を既定と捉え、その条件のもとで自分なりの生き方を描く。」
まず、前提となるのは、「自分の条件を既定と捉え、その条件のもとで自分なりの生き方を描く。」というルサンチマンとのつきあい方です。
私たちは一人一人、生きている条件はだいぶちがう。食べるのに必死な人もいるだろうし、比較的楽な人もいるだろうし、さまざまな条件の中を生きている。条件の悪い人は、つい楽しそうな人を羨んだり、憎らしく思ったりする。ニーチェが伝えたかったのは、自分の生のそういう条件を否定しないで、その条件のなかで力を尽くし、できるかぎりエロスを汲み取って生きようとする姿勢だ。ニーチェもかなり条件は悪かった。けれど、彼じしんがそうやって生きようとしたこと、このことは私たちを勇気づけてくれる。ぼくもできればそうありたい、と思うのだ。
『実存からの冒険』p.093
そういう事実を認めてはじめて、「自分としては何ができるか」と問うことができる。〈そのつどの自分の状況において何ができるのか、何を自分は欲するのか、と問いつつ、それに従って生きること。深い納得において生きようとすること(「生の肯定」)〉、これがニーチェの解答であった。ニーチェはそういう生き方を導くために「永遠回帰」というお話を創ったのだった。
彼はこの生き方を「運命愛」とも読んでいる。これは、現在の状況をたんにそのまま受け入れろ、ということではなく、現在の状況のなかでなし得ることをやり、その結果を引き受けていくしかない、ということを意味するものなのである。
『実存からの冒険』 p.232
これは、「自分の人生という与えられた条件の中で、自分にできることをするしかないし、それでいい。」という、『終末のフール』の苗場さん的な生き方ともいえます(伊坂幸太郎『終末のフール』の中の、私が好きな言葉たち【一部ネタバレあり】)。
しかし、「できることをする」といっても、一体何をすればよいのでしょうか。これに対する西研さんの回答は明白です。
その上でどうやって元気になれるか、各々が実験していくしかない。
『実存からの冒険』p.231
与えられた条件を既定のものと捉え、その条件の上で、自分なりの生き方を描く。どうやったらもっと元気に生きられるか、もっと充実して生きられるか、ひとりひとりが自由に実験していくしかない、ということです。ここに、「実験としての生」という生き方が提示されています。
(2) 自分の生を、人間の生のひとつのモデル・ケースとしてみなす
この生き方のは、これ自体で十分有用なのですが、ある意味、ひとりひとりの個人の生きる姿勢、生きるコツのようなものに過ぎません。これに対して、『実存からの冒険』は、ここからさらに先を考えます。
しかしニーチェはそこからさらに、〈そうやって生を肯定し進んでいく人間どうしが、その姿を見て互いに励まし合うという可能性〉を信じようとした。各人の生は冒険であり実験である。冒険し合う者どうしの間に信頼や共感が生まれること。そういう意味での共同性を彼は求めたのだった。
この実験=冒険としての生、というイメージのなかには、〈自分の生を、人間の生のひとつのモデル・ケースとしてみなす〉ということが含まれている。ニーチェじしん、自分の生をそういうひとつのモデルとみなしていた。充実して生きるために、さまざまな実験を身をもってやってみる。そういう努力が互いを刺激するし、励まされる。
『実存からの冒険』p.232
どうやって元気になるかを各々が実験していく、という生き方のイメージは、「人間の生のひとつのモデル・ケースとしてみなし、充実して生きるために、さまざまな実験を身をもってやってみて、その実験の成果をお互いに交換しあい、励まし合う」というコンセプトを含んでいます。
これが、私が『実存からの冒険』から受け取った、〈実験=冒険としての生〉というイメージです。
(3) 〈実験=冒険としての生〉というイメージを現実化するための、コミュニケーションの作法
では、この〈実験=冒険としての生〉というイメージを現実化するには、つまり、自分の生を人間の生のひとつのモデル・ケースとみなして積極的に試行錯誤して、試行錯誤によってお互いに刺激を受けたり励まされたりするには、どうしたらよいのでしょうか。
西研さんの答えは、「コミュニケーション」です。
しかしそのためには、コミュニケーションが必要なのである。「君はこうやっているんだね、僕はこうやってみたよ」、といい合い、伝え合うことがなくてはならない。ぼくも、そういう実験し合う共同性を求めたい。これは、「実存からの冒険」を導くひとつのイメージである。
『実存からの冒険』p.233
それも、単なるコミュニケーションではなく、一定の作法にしたがったコミュニケーションです。ポイントは、「問題のかたちにする」ということです。
<単なる自分だけの孤独、苦しさを、どういう問題のかたちにできるか。つまり、それをめぐって人と話ができるようなテーマにするか。そして、自分はその問題をどう考えるかをいってみる>。
『実存からの冒険』p.097
なにかのテーマ、問題を立てて、それについて「自分はこう考える」というふうにいってみる。なんとなく考え込んだり悩んでいたりしたって自己了解の作業ははかどらない。問題に対して答えを提出していく、という構えができると、確実に少しずつでも進んでいくことができるのだ(昔はそういうことがわからなくて、ぼくもすごく苦労しました)。
『実存からの冒険』p.247
なんらかのテーマについて、問題を立てて、その問題に対して自分なりの考えを言ってみる。この作法にしたがってコミュニケーションすることが、実験=冒険としての生を現実化するためのコツです。
なぜなら、問題のかたちで提示されると、自分以外の他の人も、その問題にたいして、自分の考えを提出できるからです。
また、問題が提出されると、他の人もその問題にたいして「おれはこう考えるけれど」ということができる。すると、純粋に考え方をめぐっての討論が可能になってくる。互いの違いや同じところもみえてくる。共感したり、触発されたり、という関係がとれるのだ。これは、相互の了解を交換し合うことの喜びを求めていくことであって、なんとなく一体感をもとめることではない。
かつてはそうした媒体として、<社会変革>という大テーマがあった。いまはそういうものはなくなってしまったけれど、これからは積極的に問題を立てていくという発想が必要だと思う。家庭や学校や会社や男女関係で悩んだり困ったりすること、そういうことをどうやって問題のかたちにするか。そして問題を媒介にして自己了解と相互了解を求めていくこと。「思想」の営みとはそういうことなのである。
『実存からの冒険』p.247
このように、自分の生をひとつのモデル・ケースとみなし、充実して生きるための自分なりの試行錯誤や実験を、問題のかたちで提示することこそが、西研さんにとっての、「思想」や「表現」です
自分のひっかかっていることや苦しいこと、理解されないこと、いうにいえないこと、そういうことを闇に葬ってしまわないこと。そこに、「思想」や「表現」というものが出てくるはずだし、それはだれだって少しずつはやっていくことができる。ぼくはそう思う。
『実存からの冒険』p.097
3.〈実験=冒険としての生〉というイメージが、ブログによって現実になっていた
『実存からの冒険』を最初に読んだときから、この〈実験=冒険としての生〉というイメージは、私を捕えて離しませんでした。
魅力を感じたポイントのひとつは、このイメージが生き方の土台を与えてくれたことです。当時の私は、なんのために生きるのかとか、人生においてどんなミッションを果たすべきか、などを見失っていました。考えても生きる意味やミッションがよくわからず、無気力状態になりかけていました。
自分の人生をひとつのモデル・ケースとみなして、充実して生きるために自分なりに試行錯誤する、という生き方は、この状態に対する処方箋になりました。生きる意味やミッションがわからなくても、少しでも充実して生きていくために、自分なりに力を尽くしていこうと納得できました。
でも、これよりもっと魅力的だったポイントがあります。それは、充実して生きるために私が行った試行錯誤が、他の人に刺激を与えたり、他の人を励ましたりする可能性と、もっと元気に楽しくなるために他の人が行った実験から、私が何らかの刺激を受けたり励まされたりする可能性です。「冒険であり実験でもある生を生きる者どうしの間に信頼や共感が生まれるという意味での共同性」というイメージに、とても強いあこがれを感じました。
ですが、自分なりに試行錯誤する生き方を実践するのは自分だけでできますが、試行錯誤によって励まし合う共同性を実現することは自分だけではできません。また、そのための方法も、よくわかりませんでした。当時の私にとって、試行錯誤によって励まし合う共同体は、ワクワクして魅力的な考え方ではありましたが、理屈を楽しむ机上の理論のようなものでした。
●
さて、ブログに戻ります。
「ブログは、考えたこと・やってみたことの報告の場 – iPhoneと本と数学となんやかんやと」が表現するブログでは、『実存からの冒険』が描く〈そうやって生を肯定し進んでいく人間どうしが、その姿を見て互いに励まし合うという可能性〉が実現されているのではないかと感じます。Atsushi(@choiyaki)さんがブログに取り組む姿勢は、〈自分の生を、人間の生のひとつのモデル・ケースとしてみなす〉姿勢といえる気がします。
『実存からの冒険』は、実験し合う共同性のためには、「「君はこうやっているんだね、僕はこうやってみたよ」、といい合い、伝え合うこと」が必要だと言います。倉下さんは、ブログを書くことは「積極的な社会参加」だと言います。「積極的な社会参加」としてブログをすることは、ある意味、実験し合う共同体の一員となることなのかもしれません。
『実存からの冒険』で、西研さんは、「なにかのテーマ、問題を立てて、それについて「自分はこう考える」というふうにいってみる。なんとなく考え込んだり悩んでいたりしたって自己了解の作業ははかどらない。問題に対して答えを提出していく、という構えができると、確実に少しずつでも進んでいくことができる」と述べています。これは、まさに、私の感じる自分のブログを持つ効用です(仮説としての「問い・答え・理由」によって、思考の範囲を区切る(私のトップダウン型思考))。
ブログを始めて2年半が経ち、ふと気づけば、私は、『実存からの冒険』から受け取った〈実験=冒険としての生〉というイメージを、かなりの程度、実現できていました。
最後に、「Weekly R-style Magazine ~プロトタイプ・シンキング~」の「ブログと市民」から、もう一度引用します。
情報のやりとりが重要な地位を占める社会__情報化社会__では、情報によって社会とのつながりを生み出すことができます。
私がブログに何かを書けば、その書いた何かによって、私と他の人のつながりが生まれる。情報を介して、人と人がつながる事例は、現代ではもう珍しい風景ではなくなりつつあります。今後は、もっとそれが広がっていくでしょう。
ブログを書くことは、人間の知的活動です。そして、それは「積極的な社会参加」なのです。
私がブログを書くことで生み出したい私と他の人とのつながりは、充実して生きるための試行錯誤によって、お互いに刺激を受けたり励まされたりする関係なんだろうなと感じました。
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